2004年6月9日発行の新聞『被団協』248号の内容をご紹介します。

『被団協』248号目次
1・アメリカまたも核実験
2・被爆60周年への決意新たに
3・支援する会が街頭宣伝
4・原告近藤さんが意見陳述
5・被団協訪米代表団に参加して
6・「遠い、遠い、遠い夏の日」 明坂尚子著
7・講演会のおしらせ
8・長崎被災協5月のうごき

核兵器廃絶の願いに逆行
アメリカまたも核実験

長崎被災協、ただちに抗議

5月25日早朝、アメリカは臨界前核実験を強行しました。ブッシュ政権になって8回目の核実験です。
長崎被災協は、核実験の知らせを受けてすぐに、駐日アメリカ大使館を通じてブッシュ大統領へ抗議文を送りました。5月29日に開かれた第45回定例評議員会でも、ブッシュ大統領になって以来、核兵器廃絶に逆行する動きが強まっているなかでの今回の核実験であることを重視し、抗議の決議文を採択してブッシュ大統領や日本政府へ送付しました。

評議員会での決議
アメリカの核実験への抗議の決議
アメリカは、日本時間今月25日早朝、ブッシュ政権になって8回目の核実験を強行しました。私たちは、この暴挙に対し、怒りをもって抗議するものです。
4年前、核兵器保有国をふくめた核不拡散条約(NPT)加盟国が合意した「核兵器廃絶への明確な約束」は、核兵器をなくせと訴え続けてきた私たちに大きな希望を与えました。しかし、その後成立したアメリカのブッシュ政権は、一方では、アフガニスタンやイラクで劣化ウラン弾を使用して放射能被害をまきちらし、もう一方では、包括的核実験禁止条約(CTBT)の批准を拒み、核兵器の使用をふくむ先制攻撃をも主張、さらには「使える核兵器」の開発さえ公言して、「核兵器も、戦争もない21世紀を」という世界の願いに逆行してきました。
今回の核実験は、ブッシュ政権のこのような動きの中で実施されたものであることを私たちは重視します。
59年前、一発の原子爆弾によって人間として許すことのできない地獄を体験した私たちは、ブッシュ大統領に対し要求します。
① すべての核兵器の開発や実験をただちに中止すること。
② 原爆被害者に謝罪すること。
以上決議します。
2004年5月29日
財団法人 長崎原爆被災者協議会 第45回定例評議員会

抗議のすわりこみ
5月30日午前11時から正午まで、長崎市では平和祈念像前で核実験への抗議の座り込みが行われました。雨雲が低く覆う下で、参加者約40名は怒りの抗議文を採択しました。この日、長与町でも25名が参加して抗議の座り込みが行われました。


被爆60周年への決意新たに
被災協定例評議員会終わる

長崎被災協第45回定例評議員会と本年度第2回理事会の合同会議は、5月29日午後2時から長崎市岡町の長崎被災協講堂で開催され、昨年度の事業、財政のまとめを行うとともに、今年度の事業計画および予算を確定しました。また、アメリカの核実験に抗議する決議文を満場一致で採択しました。
昨年から今年にかけてのアメリカのイラク侵攻と日本での有事法制の整備に連動して具体化してきた日本での改憲の動きを重視した活動方針の提起となっているのが特徴で、高齢化し病弱になったとはいえ、被爆60周年を来年に、さらに長崎被災協50周年を再来年に控えた今年の活動を充実したものにしようという決意を込めた決議文が採択されました

原爆症認定集団訴訟
支援する会が街頭宣伝
1時間で177名の署名集まる

集団訴訟を支援する会は5月22日(土)午前11時から正午まで、長崎市の繁華街の鉄橋で街頭宣伝をくりひろげました。この行動には9団体から26名が参加、拡声器で原爆症認定集団訴訟への支援を呼びかけると同時に、チラシ1,000枚を配布しました。
通行する市民も快くチラシを受け取り、裁判所へ公正な判決を要請する署名も、177名分集まりました。(写真は署名に応じる市民)

原告古賀好行さん逝去
集団訴訟の原告古賀好行さんは、裁判の結果を見届けることなく、5月13日逝去されました。

原告近藤さんが意見陳述
第7回口頭弁論
原爆症認定集団訴訟の長崎地裁での第7回口頭弁論は、5月25日午後1時10分から開かれ、原告近藤勲さんが被爆の体験にもとづいて原爆症と認めない国の仕打ちの不当性を訴えました。つづいて原章夫弁護士が、国が認定審査の基準に使っている原因確立の問題点を明らかにしました。この原弁護士の発言内容は、原告第3準備書面として裁判所へ提出されました。なお、課題となっていた法廷でのビデオは、当日担当の裁判官の一人が欠席していたため次回(7月12日)に上映されることになりました。

第7回口頭弁論
原告近藤さんが意見陳述

原爆症認定集団訴訟の長崎地裁での第7回口頭弁論は、5月25日午後1時10分から開かれ、原告近藤勲さんが被爆の体験にもとづいて原爆症と認めない国の仕打ちの不当性を訴えました。つづいて原章夫弁護士が、国が認定審査の基準に使っている原因確立の問題点を明らかにしました。この原弁護士の発言内容は、原告第3準備書面として裁判所へ提出されました。なお、課題となっていた法廷でのビデオは、当日担当の裁判官の一人が欠席していたため次回(7月12日)に上映されることになりました

被爆者の願い実現めざし
被団協訪米代表団に参加して

長崎被災協 副会長 谷口稜曄

 来年開催される核不拡散条約再検討会議にむけた準備会議へ被爆者の声を反映させようと、4月の末、渡米しました。日本被団協のメンバーは日本被団協事務局次長小西悟さん、東友会の山田玲子さんと平田道正さんそれに私の4人でした。
4月26日には国際婦人自由連盟と日本被団協の共催で「被爆者証言」の集いがあり、小西、山田、谷口の三人が証言し、活発な集会となりました。27日は、準備会議を傍聴。この日はNGO集会もあり、伊藤長崎市長、秋葉広島市長も参加しました。28日には、小西さんと私で国連日本代表部を訪問、原口特命全権大使と面談しました。その後、山田さん、平田さん、伊藤市長、秋葉市長と合流、9・11の犠牲者追悼式に参列。29日には、メキシコ、マレーシア、イギリスの政府代表を訪問しました。30日は、アメリカ代表部と面会、さらに5月1日にかけてアポリション2000などが主催する諸集会に参加しました。

=図書紹介=
「遠い、遠い、遠い夏の日」
明坂尚子著会

《玄関先の庭で、出かけたはずの母の声がした。ズックの靴ひもが切れたらしく、祖母の渡した買溜めの靴ひもを穴に通していた。駆けよってきたわたしの顔を見てニコッと笑い、手をやすめ、人さし指で頬っぺをポンとついた。…中略…あの朝、振り向いた母は、それっきりわたしのもとには帰って来なかった。
この運動場で消えてしまった。小さな骨のひとかけらも残さないで。》
この本の「ザボン」という章の一節です。「この運動場」というのは、母が勤務していた城山小学校の運動場のこと。そのとき著者は9歳。あの日、すぐ下の妹は近所に遊びに行っていて焼死。祖母はあの8月の28日に原爆症で、父も1988年に癌で、それぞれ死去。
長崎の街のたたずまいのあちこちが、著者明坂尚子(あけさかひさこ)にとっては遠い遠い遠い夏の日に重なっていくのです。
恨みつらみを述べるのでもなく、肩いからせて主張するのでもなく、家族や幼かった頃の友人の思い出がむしろ淡々とつづられていて、技巧ではない美しい表現が読む人の胸を打ちます。各章わずか4ページ。それぞれ約1,000字の文章の中に秘められた著者の思いを、ぜひ多くの人に共有して頂きたいと思って、ここに紹介します。
昨年8月に文化出版局から出版。1,260円。著者は長崎在住の著名な染織家で、長崎でも個展をひらいてきた方。

イラク人質事件の安田純平さんを招いて講演会
6月20日午後1時から-

 3月20日に、国際的なうねりと連動して「イラク占領反対」「自衛隊の派兵反対」の市民集会を成功させたワールド・ピース・ナウ実行委員会は、イラクで人質となり、のちに無事釈放されたジャーナリスト安田純平さんを招いて人質事件の背景とイラクの現状について語ってもらおうと、講演会を開くことを決めて準備を進めており、多くの市民の参加を呼びかけています。
参加費は1,000円。チケットは、長崎被災協事務所にもあります。
開催は、6月20日(日)午後1時からNCC&スタジオ(長崎市茂里町)で


長崎被災協5月のうごき

03日 憲法記念日 実行委員会をつくって講演会を開催。
11日 安田純平氏講演会実行委員会に出席。
12日 監査。
〃  日本被団協代表理事会に出席
13日 代表理事会(2日目)
14日 第1回理事会を開催。
15日 「拡大区域」問題での協議会に出席。
17日 8月9日の政府への要望についての打ち合わせ。
19日 安田純平氏講演会実行委員会に出席。
20日 日本被団協中央相談所理事会に出席。
22日 集団訴訟を支援する会が長崎市で街頭宣伝行動を展開。
25日 集団訴訟7回口頭弁論があり傍聴。報告集会を開催。
28日 医療と福祉を考える懇談会総会に参加。
29日 第45回評議員会、第2回理事会を開催。
30日 アメリカの核実験に抗議する座り込みを行う。
31日 被爆体験を語り継ぐ会を開催