2011年7月9日発行の新聞『被団協』333号の内容をご紹介します。

=これまでの歳月を偲び、これからへの決意も新たに=
長崎被災協結成55周年のつどい

 長崎被災協は、6月25日(土)に長崎市茂里町の法輪会館別館リアンで「結成55周年 記念のつどい」を開催、150人が参加、55年の歩みを振り返るとともに、新たなとりくみへの決意を語り合いました。

「つどい」は、午前11時の長崎被災協谷口会長の開会の挨拶ではじまり、原爆が投下された11時2分にあわせて、亡くなった方々を悼み、いまなお病床に伏しておられる方々のご快癒を祈念して、全員で黙とうを捧げました。

ついで田中日本被団協事務局長、田上長崎市長、中村長崎市議会議長の挨拶ののち、民主、自民、公明、共産、社民各党の代表から、それぞれにこれまでの長崎被災協の奮闘をたたえ、これからの活動への期待を寄せる挨拶があり、その後、DVDを使っての長崎被災協の55年の歩みが紹介され、引き続いて、一橋大学名誉教授浜谷正晴氏が、「長崎被災協の被爆者たちーー出会いと群像」のテーマで講演を行いました。

このあと午後の部へ移り、渡辺知恵子さん生涯をたたえる組曲『平和の旅へ』が、「平和の旅へ」合唱団による合唱で披露されました。

その後会食に入り、和やかな巷談が続く中で、日本被団協九州ブロック代表理事奥城和海さん、被爆者5団体を代表して被爆連議長川野浩一さん、長崎民医連会長平野智久さん、いきいきコープ理事長升本由美子さんが挨拶、その後の懇談が続く中で、最後に、長崎被災協の山田拓民事務局長がこれまで56年間の被爆者運動の特徴的なとりくみを振り返り、これからの決意を表明しました。

「つどい」は、NBC放送の平野妙子さんの見事な司会で、終始、和やかな雰囲気の中に進行、午後3時、閉会しました。


集団訴訟を支援する会が7月23日に解散

 2003年にはじまった原爆症認定を求める集団訴訟は、2009年8月6日、当時の総理大臣と日本被団協の間で『確認書』を交わして6年余に及ぶ訴訟冶終りました。その後、敗訴者の救済のための法人が設立され、国はこれに3億円を支出、設立された法人によって敗訴者への配分もほぼ終結しました。完全な終結に至っていないのは、まだ地裁判決が残っている所があり、全国的な裁判と支援運動の終了は、こうした処理がすんでからということになります。

長崎の集団訴訟を支援する会も、こうした推移を背景に、解散することになり、7月23日(土)には、午前11時から、長崎市常盤町のホテル・ニュータンダで最後の総会を開催、その後8年余のとりくみの労をねぎらう懇親会を予定しています。

 



8月9日に日本被団協結成55周年のつどい

 1956年8月10日、第2回原水爆禁止世界大会の2日目、世界大会に全国各地から集まっていた被爆者が結集し、長崎市で、日本原水爆被害者団体協義会の結成集会が開かれました。

「原爆から11年余りたった今になって、私たちは、はじめてこのように全国から集まることができました。

あの瞬間に死ななかった私たちが今やっと立ち上がって集まった最初の全国大会でございます」当日採択された大会宣言の冒頭です。

 こうして、日本被団協は第一歩を踏み出したのです。

それから55年。ことしの8月今日午後2時から、長崎市元船町の「サンプリエール」で日本被団協結成55周年のつどいが、ひらかれます。

 


◇原爆症認定審査の実態
 法を無視する厚生労働大臣 
早急に全面的改善を!

ここに掲げる文章は、絵空事ではありません。
もちろん人名や被爆場所などは伏せていますが、内容はほぼ事実に沿ったものなのです。
抜本的な改革が必要だと思っています。(山田拓民)

あの日、5歳だったAさんは、爆心地から2血の本原3丁目の自宅で住んでいるときに被爆しました。その後病気らしい病気もしなかったようですが、疲れ易く、小学校の運動会でも駆けっこでは途中で真っ青になって倒れたこともあり、あまり元気な子ではなかったようです。

甲状腺の病気に…

1987年、放射線影響研究所から連絡があり、Aさんが被爆した地域は残留放射能の影響が大きいらしいので、甲状腺の病気になっていないか調べさせてほしい、とのこと。しつこくいってくるので断りきれず、診察を受けたところ、随分たってから、「異常が見つかったので、再診を」という手紙が届き、翌年月、再度の診察を受けたら腫瘍が見つかり、大学病院への通院が始まりました。

原爆症認定を申請、厚生労働大臣の答えは却下

そうしたなかで甲状腺機能低下症と診断されたAさんが、主治医と相談して、自分の病気を原爆症と認定するよう、関係書類を添えて厚生労働省へ申請したのは、2009年10月も末のことでした。1年半以上すぎた2011年6月末、理由らしい理由も示さず、原爆症と認めないという「却下」の通知が届きました。
あえて行政手続法を持ち出すまでもなく、申請を断る時に理由を明らかにするのは、行政として当然のことです。

甲状腺機能低下症は、積極的に認定すべき病気

それに、甲折腺機能低下症は、厚生労働省が定めた「新しい審査の方針」でも、積極的に認定する病気の一つにあげられていて、「格段に反対すべき理由がない限り、病気と放射線の関係を積極的に認定する」ことになっています。

1件の申請を55秒で審査

却下通知書を受け取ったAさんは、念のためにと、パソコンで厚生労働省のホームページを開いてみて驚きました。なんとAさんの申請を審査したと思えることし4月25日の審査会では、326件の審査を5時間で片づけているのです。
l件あたりの審査時間は55秒だったのです。
Aさんは憤りをこめて異議申立書を作成しました。



 長崎被災協55年の歩み 
(2) 1969~1973

1968年 1月19日
アメリカの原子力空母エンタープライズが世保に入港 抗議運動に参加

1968年 5月 2日
アメリカの原子力潜水艦が佐世保に入港。港内で異常な放射線を検出

1969年 3月10日
福田須磨子の小説「われなお生きてあり」が文学賞)を受賞

1969年 8月 9日
「長崎の証言」創刊号発行

1970年 3月30日
長崎市恵の丘に原爆ホーム完成

1970年 8月31日
日本被団協がそれまでの理事長制度を3人の代表委員制度に改め、長崎の小林ヒロ、広島の槍垣益人、東京の行宗一の3人を代表委員に選出した。

1971年 8月 6日
佐藤栄作首相が広島市の原爆被爆者慰霊式典に、首相として初めて出席なお出席後の記者会見で「被爆者援護法は考えていない」と発言した。

1970年 8月 7日
日本被団協は8月6日の佐藤首相の発言に抗議の声明を発表した。

1972年 3月7日
韓国人被爆者孫振斗さんが被爆者健康手帳の交付を求めて、福岡地裁へ提訴。

1973年 3月1日
「被爆者援護法は必要」と厚生大臣が発言。

1973年
4月2日
日本被団協が「原爆被害者援護法案のための要求骨子」を発表し、各党へ「要求骨子」への賛同を要請した。

1973年
8月1日
自民党が「被爆者援護について」を発表。

1973年
8月5日
共産党が原子爆弾被爆者等援護法案要綱」を発表。

1973年
11月8日
社会党被爆者対策特別委員会が「原爆被害者援護法案要綱について」を発表。

1973年
11月17日
民社党が「原子爆弾被爆者援護法実の提案について」を発表。

1973年
11月28日
野党4党(社会、公明、共産、民社)の書記長会談が開かれ、「被爆者援護法制定の早期実現のため、共同で努力する」ことを決定した。

《こうした各党の動きが見えるようになるまでに、毎月のように中央行動が繰り広げられ、長崎からも積極的に参加したのであった。》




長崎被災協4月の動き

6日 日本被団協代表理事会(谷口、山田)
7日 日本被団協総会(谷口、山田、広瀬、道下、柿田)
8日 引き続き日本被団協総会(谷口、山田、広瀬、道下、柿田)
ノーモアヒバクシヤ9条の会
9日 国会要請行動(谷口、山田、広瀬、道下、柿田)
11日 いのちの山河」上映会
14日 55周年行事実行委貞会(坂本、道下、田中、山田、柿田)
資料協議会(谷口)
16日 原対協理事会(谷口)
政府への要望検討会議(山田)
17日 九州ブロック代表者会議(谷口、山田)
18日 平和宣言起草委負会(谷口)
いきいきコープ総代会(柿田、川口)
いきいきコープ理事会(柿田)
21日 県生協連総会(柿田)
25日 被災協結成55周年記念の集い