2011年8月9日発行の新聞『被団協』334号の内容をご紹介します。

=なくせ核兵器、原爆被害への国の償いを!
巡ってきた66年目の8月9日

 いまから66年前の1945年8月9日午前11時2分、米軍爆撃機ボックス・カーが投下した原爆は、長崎市松山町の上空で炸裂し、長崎市は地獄と化した町でした。

 爆心地から1キロで以内の20町は全壊し、全焼、さらに2キロ以内の20数力町も約80%が倒壊し、全焼したといわれています。

 また死傷者についても、1950年7月の長崎市原爆資料保存委員会の推計による死者7万3千884人、負傷者7万4千909人というのが一般に使われてきましたが、これとても死者、負傷者を数えたわけではなく、あくまでも推計に過ぎず、実態はつかめないまま、いまでは死者7万4000人、負傷者7万5000人というのが定説となっています。死傷者の数さえ不明というのが、原爆の悲惨さを物語っています。

  なお、平和公園の西側にある長崎市原爆無縁死没者追悼祈念館には、いまもなお、身元不明の死没者8千962名(うち氏名がわかっている者122名)の遺骨が納められています (数字はことし3月31日現在)。

長崎原子爆弾無縁死没者追悼記念館

 さらに、原爆がもたらした健康障害は、様々な形で、被爆者を苦しめています。

 66年日の8月9日を迎え、いま、全国の被爆者は、核兵器の廃絶と二度と被爆者を作らない証しとしての原煉被害への国による償いの実現をめざし、決意を新たにしているところです。


 またもアメリカが核実験
被爆5団体直ちに抗議 

 アメリカ政府が昨年の12月1日とことし2月2日にネバダで臨界前核実鼓を行ったことが7月19日に明らかになりました。今回も、実験実施から7カ月半あるいは5カ月半も経過したあとでの公表で、なぜ隠すのかと不信の思いが広がっています。また、昨年来、アメリカは核実験を行った世界唯一の国となっています。

 事態を重視した長崎の被爆者5団体は、7月22日、長崎市役所記者室で記者会見を行うとともに、同日、連名でオバマ大統領宛に抗議文を送りました。その中で被爆者5団体は、昨年来の核実験のくり返しは、オバマ大統領が1昨年、プラハで「核のない世界」を目指すと演説し、国際的にも高く評価されたことに反するものであり、核による威嚇の姿勢だと、きびしく批判するとともに、米国は今後あらゆる核実験を廃止し、速やかに核兵器の廃絶と平和外交に徹するよう求めました。

 被爆者5団体の抗議にアメリカ大使館が返書

駐日アメリカ大使館は、さる3月のアメリカの核実験に射し、被爆者5団体が抗議文書を送ったことについて、5月20日付けで公使補佐官ロバートSルークの名前による返書を長崎被災協宛に送ってきました。これまで私たちは、耕実験のたびに実験を実施した国の政府へ抗議文を送ってきましたが、返書が届いたのは初めてのことです。

 返書は冒頭で「3月31日の核実験についてご見解を頂き感謝します」と述べ、これらの実験はオバマ大統領のプラハでの演説の内容に沿ったものだとし、さらに今回の実験はいわゆる核実験とは違うと強調、今回のサンディアの実験などが核兵器の安全性と効果を確認するうえで重要と述べています。


集団訴訟を支援する会
解散総会に100人集う



「原爆症認定集団訴訟を支援する会」(個人会員230名、団体会員34団体)は、裁判の終結に伴い、7月23日、長崎市常磐町「ホテルニュータンダ」で解散総会を開きました。この総会には、原告、弁護団、支援団体代表、個人会員ら100名が参加しました。挨拶に立った弁護団長中村尚達弁護士は、集団訴訟では大きな成果を収めたもののまだ課題も残っており、弁護団は体制を維持してゆくと述べました。
 議事では、被爆者問題はこれで終わったわけではなく、
(1) これまでに築き上げたネットワークを生かして今後の課題に対応してゆく
(2) 残余資産については、
①「集団訴訟支援全国ネット」「被爆体験者訴訟原告団」「高校生1万人署名運動」へ寄付
②さらに残余額については長崎被災協で保管し、ネットワークのとりくみに使っていく。
などが全員の賛同で決まりました。この総会には、日本被団協田中事務局長、全国弁護団事務局長宮原弁護士も参加されました。


     東日本大震災募金   (2011.7.30現在)

金額(円) 人数(人) 総額(円)
10,000 5 50,000
5,000 3 15,000
3,000 2 6,000
2,000 9 18,000
1,000 102 102,000
800 1 800
700 1 700
500 49 24,500
400 2 800
300 27 8,100
200 98 19,600
100 1 100
合計 300 245,600

 



 長崎被災協55年の歩み 
(3)1974年3月~2003年3月

1974年3月
野党4党が原子爆弾被爆者援護法案を衆議院へ提出。 このあとくり返し国会へ提出されるが、陽の目を見ることはなかった。

1977年7月
国連NGO主催で「被爆の実相とその後遺、被爆者の実相と被爆者の実情に関する国際シンポジウム」(77シンポ)を開催。 長崎被災協も被爆地の被爆者組織としてその成功に貢献。

1978年3月
韓国人被爆者孫振斗さんに対する最高裁判決。 現行法に国家補償法としての性格を認める。

1978年5月
第1回国達筆縮特別総会(SSDⅠ)。長崎被災協は、代表として酒井久子氏、白石(現、横山)照子氏をニューヨークへ派遣

1979年5月
厚生大臣が、私的諮問機関として「原子爆弾被爆者対策基本問題懇談会」(基本懇)を設置

1980年12月
「基本懇」が被爆者にも受忍論を押し付ける「答申」を発表

1982年6月
第2回国連軍縮会議(SSDⅡ)。被災協山口仙二氏ら6名を派遣。山口仙二氏が国連本部会場で演説。
1980年代から90年代にかけて、海外遊説はじまる。

1994年7月
 長崎被災協の砦としての被爆者会館が平和公園の一角に完成

1996年4月~12月
爆心地の標識・黒御影の石柱を撤去し、女人像を設置すると長崎市が発表。長崎被災協も加わって反対運動を展開、結局石柱は残ったが、女人像も敷地内に建てられた。

1999年5月
第6代会長に葉山利行氏が就任

2000年7月
長崎原爆松谷訴訟で原告松谷英子さんに勝利の判決。

2003年3月
原爆症認定集団訴訟始まる。長崎で3名提訴




長崎被災協7月の動き

2日 平和宣言起草委員会(谷口)
4日 「原発についての学習集会」(講師・西岡由香さん)
集団訴訟を支援する会運営委員会(谷口、山田、柿田)
7日 公益法人会全国代表者会議(柿田)
新聞「被団協」発送作業
9日 弁護団・原告・支援する会全国代表者会議(柿田)
10日 福岡から弁護士、学生のグループ来訪、被爆者問題について講話
(山田・森内)
12日 日本被団協代表理事会→13日まで(谷口、山田)
14日 弁護団会議(山田)
16日 福岡市で九州山口の二世のつどい(柿田)
20日 集団訴訟を支援する会運営委員会(谷口、山田、柿田)
22日 アメリカの核実験への抗議について被爆者5団体で記者会見(山田)
23日 集団訴訟を支援する会解散総会
24日 アメリカの核実験に抗議する市民の会の座り込み
29日 被爆者対策協議会(谷口)