2011年9月9日発行の新聞『被団協』335号の内容をご紹介します。

「安保条約」調印から60年
朝鮮戦争下の緊急措置か?
調印したのは吉田首相ただ1人

 1951年9月4日からサンフランシスコ市のオペラハウスで開かれた対日講和会議では、7日、吉田茂首席全権が講和条約受諾の演説を行い、翌8日、出席した6人の日本全権団 (首席全権・吉田茂首相、全権委員・池田勇人蔵相、同。苫米地義三国民民主党委員長、同・星島二郎自由党常任総務、同・徳川宗敬参院緑風会議長、同・一万田尚登日銀総裁)は、揃って調印式に臨んだのでした。

 そしてその日の午後5時、同市内の米軍第6兵団駐屯地に用意されていたのが「日米安全保障条約」(安保条約)でした。現れた日本代表は吉田首相ただ一人。署名が終了し、アメリカ軍に日本国内の基地を提供する日米安全保障条約の調印式は終わったのです。

 僅か5カ条からなるこの条約(内容は下記の通り)は、第1条」で日本はアメリカ軍に日本国内に駐留する権利を与える、と明記し、第二条では、アメリカの同意がない以上他国軍の駐留などを禁止するというものでした。

日本に駐留するアメリカ軍は、
①極東アジアの安全に寄与する、
②直接の武力侵攻などがあった場合などは日本に援助を与えることができる、
というもので、アメリカに日本を守る義務は示されてありませんでした。
この条約が結ばれた1951年とは、その前の年にはじまった朝鮮戦争はどう決着するのか先行きが見えない時期でした。アメリカにとっては戦場を目前に控えた後方基地として、日本に基地をおくことはとても重要なことだったのです。
その後、1960年には改定されて、「安保条約」はいまも生きているのです。そしてことしは、1951年の「安保条約」調印から、60年目の年なのです。

日米安全保障条約
第一条
日本は国内へのアメリカ軍駐留の権利を与える。
駐留アメリカ軍は、極東アジアの安全に寄与するほか、直接の武力侵攻や外国からの教唆などによる日本国内の内乱などに対しても援助を与えることができる。
第二条
アメリカ合衆国の同意を得ない第三国軍隊の駐屯。配備、基地提供、通過などは禁止する。
第三条
細目決定は、両国間の行政協定による。 第四条 この条約は、国際連合の措置または代替されうる別の安全保障措置の効力を生じたと両国政府が認識した場合に失効する。
第五条 この条約は批准後に効力が発効する。
(1951年9月8日調印)


 日米裁判権問題
53年前の「密約」露見か 

 1951年に調印された「日米安全保障条約」の細目を定めた行政協定の改定交渉の中で、1953年当時に、日本政府が「重要な案件以外は裁判権を放棄する」とアメリカへ表明していたことが明らかになったと、8月27日付の各新聞が報道しました。

 最近の例でも、沖縄の基地に駐留する米軍兵士の飲酒運転によって日本人が死亡した事件での裁判権が日本にあるのかアメリカにあるのか(日本の裁判所で裁判するのか、アメリカの軍事法廷で裁かれるのか)が問われていて、アメリカ側はアメリカ軍の法廷での裁判を主張していますがこの58年前の《密約》が事実とすれば、日本の裁判権はすでに放棄されていたことになります。政府は、日本側の一方的な発言であって合意したものではない、と《密約》を否定しているそうです。 


秋のとりくみを前に
日本被団協が代表理事会

9月15日・16日、東京で  

日本被団協は、9月14日・15日の2日間、東京で日本被団協の業務の執行に当たる代表理事会を開き、9月以降のとりくみの課題について協議することにしています。

 この会議で検討する主な内容は、
①原爆被害への国家補償を求める運動にどう取り組むか、
②現在進行中の「原爆症認定制度の在り方に関する検討会」での議論の進行状況について、
③日本被団協結成55周年事業について、
④その他、
となっています。長崎からは、山田事務局長が出席します。
この代表理事会での協議を受けて、長崎でも理事会を開催し、長崎でのとりくみの具体化をはかります。

10月18日・19日には全国代表者会議
日本被団協は、9月の代表理事会での討議を受けて、10月18日・19日に全国都道府県代表者会議を開き、秋から春に向けてのとりくみの成功をめざして、全国的な意思統一を図ります。この会議へ長崎被災協からは、谷口会長・山田事務局長のほか4名を派遣する方 向で検討しています。なお、この全国都道府県代表者会議の翌日には、政府・政党への要請行動が予定されています。


原爆症認定問題 相変わらず不透明な審査
1人の審査に平均2分9秒 ことし4月からの審査の実態

 下の表の「審査部会」の欄のⅠは主に消化器系以外のガン、Ⅱは消化器系のガン、Ⅲは白血病や副甲状腺機能亢進症、Ⅳは白内障や心筋梗塞を審査する部会で、それぞれ4名から7名の審査委負が配置されています。また、それら以外の病気や、部会で「保留」とされた申請については、委員全員による被爆者医療分科会での審査が行われます。
表で「分科会」と示しているのは、この「全委員での審査」の意味です。

気になる審査時間の短さ
気になるのは1件あたりの審査時間の短さです。長くて4分、短いのは0.9分なのです 特に「分科会」での審査の審査時間の短さには驚かされます。これで十分な審査ができるはずはありません。

積極的認定の対象の病気も積極的に却下?

表からわかるもう一つのことは、Ⅲ部会・Ⅳ部会と分科会での認定率の低さです。 いいかえるとガン以外の病気での認定は難しいと言うことです。この中には、「新しい審査の方針」で積極的に認定温すると定められた病気も含まれています。厚生労働省は、自分たちで決めたことも守っていないのです。


 九州ブロック相談事業講習会 今年は博多で 

昨年の「九州ブロック相談事業講習会」は、温泉の街・佐賀県嬉野で開催、有意義なお話しを聴くとともに、にぎやかに懇談、温泉を楽しみましたが、ことしは福岡市での開催となり、目下、その準備がすすめられています。

 会場は、博多湾を臨む豪華なホテルが準備されています。ホテルはヒルトンホテルシーホーク。詳細はいま検討中ですが、期日は12月8日(木)・同9日の2日間です。

往復はゆっくりした貸切バス。講習会は2日目の午前中までですから、午後はどこに立ち寄るか、皆さん方からのご要望を聞かせてください。お誘いあわせ多くのの方のご参加を!!   


 長崎被災協55年の歩み 
(4)2003年4月~2005年8月

2003年
4月17日
小幡悦子さんら3名が訴状を提出し、長崎での原爆症謎定集団訴訟始まる。このあと提訴が続き、第1陣の原告は27名となり、2008年6月27日判決があり、20名が勝訴し、7名が敗訴した。
8月2日
原爆症認定集団訴訟を支援する会・長崎の結成。
9月20日
アメリカが臨界前核実験ブッシュ大統領宛に抗議文を送るとともに、翌21日に核実験に抗議する長崎市民の会として平和公園で抗議の座り込み。
11月16日
佐賀県嬉野で九州ブロック相談事業講習会(17日まで)
11月22日
第2回核兵器廃絶地球市民集会ナガサキ開催。3日間の延べ参加者数6,800人

12月11日
スミソニアン航空宇宙博物館でのB29「エノラゲイ」展示問題で山田事務局長が渡米。

2004年
5月25日
アメリカがブッシュ政権下で8回目の核実験。直ちに抗議文送付。30日には核実験に抗議する市民の会として抗議の座り込み。
8月10日
ロシアが核実験。直ちに抗散文を送付するとともに、15日に「市民の会」として抗議の座り込み。
10月21日
長崎県9条の会が発足。長崎被災協からは会長・事務局長が呼びかけ人に加わる。
11月3日
長崎県9条の会発足記念のつどい。
11月14日
九州ブロック相談事業講習会を熊本で開催。

2005年

4月25日
NPT再検討会議の成功をめざし、長崎被災協から3名(谷口副会長、下平理事、田中理事)をニューヨークへ派遣。
7月15日
県下の全市町村へ核兵器廃絶と原爆被害への国家補償を求める被爆者運動への賛同を求める要請書を送付。
8月2日
会長葉山利行氏逝去。
8月9日
平和祈念式典で坂本フミエさんが平和への誓い。



長崎被災協7月の動き

2日 いきいきコープ理事会(柿田)
3日 平和推進協会継承部会会議(谷口)
6日 平和行進到着集会で挨拶(山田)
7日 原水爆禁止世界大会集会で歓迎の挨拶(谷口)
立命館とアメリカン大学合同の平和セミナー(谷口、下平、山田)→18日
核兵器廃絶2011平和ナガサキ大会(坂本)
8日 全日本民医連(全日本民主医療機関連合会)の長崎集会で連帯の挨拶(山田)
9日 長崎原爆の日
被爆66周年・長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典
被爆者5団体で総理、厚生労働大臣らへ要請(谷口、坂本、山田)
核兵器廃絶と平和を求める各種集会
11日 医療と福祉を考える長崎懇談会世話人会(柿田)
15日 「証言の会」などと共催で不戦のつどい
23日 長崎県主催で「新法人組織への移行相談会」(山田・柿田)
24日 被爆体験を寄り継ぐ会
25日 原爆資料館運営協議会(谷口)
31日 長崎原爆被爆者対策協議会理事会(谷口)
いきいきコープ理事協議会(柿田)