2014年5月9日発行の新聞『被団協』367号の内容をご紹介します。

原爆の惨禍も放置した政府
▼僅か2ヵ月で救護所も閉鎖▲
こんどこそ国家補償の「援護法」を

「みどりの5月」――――― 67年前の1947年5月3日、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることの無いようにすることを決意し、ここに主権が国民にあることを宣言」する私たち日本国の憲法は施工されました。
一方、その当時私たちはどのような状況下にあったでしょうか。
敗戦の年の10月5日には広島で、同8日には長崎で、それぞれ戦時災害保護法の適用は打ち切られて救護所は閉鎖され、負傷者も放射線障害等に苦しむ人たちも、被爆者はまさに放置されたのでした。
このような状況は、1957年3月に「原爆医療法」ができるまで続いたのです。

組織を作ってたたかい始めた被爆者
1954年3月1日の南太平洋でのアメリカの水爆実験と日本漁船の被爆に、日本国内での核兵器反対の声が高まり、同55年の第一回原水禁大会に励まされた被爆者は、56年5月に広島で、6月には長崎で被爆者組織を立ち上げ、同年8月の第二回大会の翌日、被爆者の全国組織・日本被団協を結成、政府に原爆被害への国の償いを求めたのでした。
これに慌てた政府が作ったのが「原爆医療法」だったのですが、原爆による人体への被害について、熱線・爆風には目をつむり、放射線被害の一部しか認めないもので、その後、現在の「援護に関する法律」に引き継がれています。
いま全国の被爆者は、今度こそ国家補償の援護法を、と立ち上ったのです。

決算・予算を確認し新年度の方針をめぐって熱心に協議
長崎市・矢の平被災協が役員会ひらく

3月31日の長崎被災協の理事会、評議員会を受けて、矢の平被災協では、4月10日に役員会を開催しました。
この会議では、まず矢の平被災協の平成25年度決算報告と同26年度予算案が提案され、いずれも承認されました。
このあと、今年度の長崎被災協の活動方針、国家補償の被爆者援護法の内容などについて、田中重光・矢の平被災協会長と長崎被災協柿田富美枝事務局次長が説明を行い、討議しました。そこでは、昨年夏の原水禁世界大会で、はじめて語り部を経験し、全国から集まった若者たちの継承しようという熱意に励まされたことや、被爆70周年に向けて、被爆体験を書くこと、原爆や戦争について語り合う座談会をひらくことや二世の健康問題など、様々の意見が出されました。 (柿田富美枝)


◇二世の会・長崎が心一一年度総会◇
熊谷博子さんが講演
新年度役員も決まる

長崎被災協・二世の会・長崎は、4月20日午後1時半から2014年度総会を開催、会員12名のほか、被爆者8名、一般8名が参加しました。
会では冒頭に、戦争や原爆など社会問題に取り組んでこられた映画監督・映像ジャーナリストの熊谷博子さんが「被爆者と二世と私たち」の題で記念講演を行い、「被爆者から多くのことを学んできた。
被爆者から感じたもの、託された思いを伝える責務がある。
二世は自分の大切な人たちのことを、どのように伝えてゆくのか。国際的にもつなかっていければと思う。二世は被爆者の前を走っていって良い。」と励ましました。
今年度の活動では、来年の被爆70年に向けた事業として、9月に平和コンサートを開くことや被災協とともに慰霊事業として、浦上川川沿い(県の所有地)のアダプト団体に加わり、花を植え、清掃活動を行います。また賛助会員制度や、ニュースや学習、コンサートなど班としての活動を取り入れ、会の活動を広めてゆく計画を確認しました。
新年度の役員として、会長に佐藤直子、副会長に岡本宏幸、高森ひとみ、事務局長に柿田富美枝、広報に田平由美、ご会計に堀 洋美が選出されました。   (柿田富美枝)


被害者に「受忍」を強いる国の被爆者対策の背景は
33年前の『基本懇答申』

いまからおよそ33年前の1980年12月11日、厚生労働大臣の私的諮問機関「原爆被爆者対策基本問題懇談会」が一つの文書を大臣あてに提出しました。これが現在「基本懇答申」と呼ばれているとんでもない文書だったのです。
この文書は、冒頭で「広島及び長崎における原爆投下は、…前代未聞の熱線、爆風及び放射線が瞬時にして、広範な地域にわたり、多数の尊い人間の生命を奪い、健康上の障害をもたらし、人間の想像を絶した地獄を現出した」といいながら、すぐそのあとで「およそ戦争という国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては、国民がその生命、身体、財産等について、その戦争によって何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、それは、国を挙げての戦争による『一般の犠牲』として、全ての国民がひとしく受忍しなければならないというところであって、(中略)その法律的救済を求める途は開かれていないというほかはない。」と言っているのです。
問題は、この文書は、官庁の中では今も生きているということです。厚生労働省の中ではもちろん、長崎市や長崎県の被爆者担当部局がそれぞれ毎年発行している「被爆者対策事業概要」にも、全文が掲載されています。
「受忍せよ」ということは「我慢せよ」ということです。国は、広島・長崎が「地獄」となったことは認めながら、それを被爆者に我慢させようとしているのです。たとえば、いまの「援護に関する法律」が原爆の爆風・熱線による被害を完全に無視し、放射線の影響にしても、狭く、小さく制限しているのも、戦争の被害は、国民は我慢するのが当たり前だ、という考えそのものではないでしょうか。
そろそろ、今年も長崎市や長崎県が『原爆被爆者対策事業概要』を発行する季節となりました。残念ながら、被爆者全員に行き渡るほどは印刷されていませんが、県庁やその出先機関、それぞれの市や町の役場では閲覧出来るでしょう。機会があったら、というよりは、ぜひ機会を作って、この『事業概要』に目を通し
て下さい。
被爆者が受けた原爆による被害は、すべて、国が始めた戦争によるものであって国には、それを償う責任があるのです。     (山田拓民)


募金運動への積極的なご協力を!
いよいよ私たちが長崎被災協を立ち上げて以来の念願である『原爆の被害への国の償い』を求める大運動が始まりました。
これまで国は、原爆直後に設けられた救護所にいても僅か2ヶ月で閉鎖して、火傷やけが、病気に苦しむ被爆者をほったらかしにし、その後、先輩たちの必死のご努力と一般の方方々のご支援の中で、「原爆医療法」をつくったものの、熱線や爆風による被害は無視し、放射線の被害にも厳しい制限を付けてきました。私たちが原爆を浴びてから今年で69年になります。いつまでもこんな政治を続けさせてはなりません。
『大運動』を展開するためには、どうしても資金が必要です。消費税は上がる、物価は高くなる、というご時世ですが、どうか募金運動に積極的なご協力をお願いいたします。

日本被団協は結成の翌月被爆者援護法案を策定
日本被団協は、1956年8月10日に長崎市で結成されましたが、結成の翌月の9月27日の第1回代表者・理事会で「原爆被害者援護法案」の柱について検討、5項目の内容の法案要項を決定しています。その内容は、次のとおりです。
①原爆被爆生存者の治療費の全額国庫負担
②健康管理の国費による実施
③被害の調査、研究・治療機関の国家による実施
④犠牲者に対する弔慰金と遺族年金制度の制定
⑤障害者に対する障害年金制度の制定と救済措置
(日本被団協50年史による)
当時、空襲などの戦災による被害に対して、国に補償を要求するということは、到底想像もできないことであったと思われますが、原爆被害の深刻さを物語っています。(山田拓民)


▶図書紹介

憲法への招待・新版
渋谷 秀樹

「集団的自衛権」を巡って憲法にかかわる問題が論じられている時ですが、「憲法とは何か」をもう少し考えたいと思って、また、「憲法」をとりあげました。今度の本は、2001年に初版が出版され、今年2月に改定版として刊行されたものです。この本が「聖徳太子の『十七条憲法』から始まっていたのも、読んでみようかと思った理由の一つでした。私の認識では、聖徳太子の『十七条憲法』は「道徳」の教科書みたいなものであって、いわゆる「憲法」とは異質なものと思っていたからです。しかしこうした提起で、著者は『憲法とは何か』を語りたかったのだと感心しました。
このことに始まって、著者は24の設問に沿って、憲法とは何か、を具体的な問題を示しながら読者と共に当然のことでしようが、「総理大臣の靖国神社参拝は、なぜいけないか」も取り上げられています。こうした具体的な現実を俎上に上げながら、憲法とは何かを明らかにする手法に、思わず引き込まれてゆきました。
「日本は、いまだに、憲法をめぐる言説は過剰であり、かつ過少であると思います。」と著者は「あとがき」に述べています。過剰な言説に惑わされず、日本の現状を見つめたいものです。 (山田拓民)


4月のうごき

1日

中央行動・国会での集会(田中、森内)

2日 福田須磨子忌
8日 被爆者5団体が当面の課題について打ち合わせ(山田)
10日

新聞「被団協」発送

17日 長崎市原爆対策部野瀬部長来訪
弁護団会議(山田・森内)
18日

70周年記念誌編集会議

20日

二世の会・長崎総会(谷口、山田)

22日 事務局会議
28日 いきいきコープ理事会(柿田)