2014年8月9日発行の新聞『被団協』370号の内容をご紹介します。

◇69年目の8月9日◇
「償い」を頑固に拒む日本政府
力を合わせ、「国家補償」の実現へ

私たちが原爆の惨禍をこうむって、69年目の8月9日を迎えました。
69年の歳月は、決して短いものではありません。この間、日本政府は私たちにどう向き合ってきたでしょうか。被爆と同時に、戦時災害保護法が適用され、救護所も設置されましたが、なんとその救護所は、僅か
2ヶ月でそれぞれ閉鎖され、ケガやヤケドに苦しみ、得体の知れない病気に苦しむ被爆者は、放り出されてしまったのです。当時、佐世保市から諌早市迄の間に設置されていた海軍の病院へも被爆者が収容されていたのですが、これも米軍に接収され、ここからも被爆者は追い出されたのでした。(大村市の海軍病院は閉鎖を免れたときいています)

ビキニ環礁での水爆実験を契機に
1954年3月1日の南太平洋ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験では、多くの日本漁船も死の灰を浴び、そのためその年の9月、第五福竜丸の通信士・久保山愛吉さんが死去されると、原水爆反対の
声は全国を覆い、「核兵器なくせ」の署名運動が展開され、こうした核兵器廃絶の声を背景に、1955年8月には広島市で第1回の原水爆禁止世界大会が、翌56年8月には長崎市で第2回原水爆禁止世界大会が、それぞれ大成功を収め、第2回大会を目前にした5月には広島で、6月には長崎で、それぞれ被爆者組織が誕生、第二回大会の翌日(8月10日)には長崎市で被爆者の全国組織「日本原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)が結成されたのでした。
そして日本被団協は、結成の翌月(9月)、政府に対し「原爆の被害に対する國としての償い」を求めたのです。

こうしてできた「原爆医療法」
1957年3月31日に制定された『原子爆弾被爆者の医療等に関する法律』(原爆医療法)は、こうした被爆者の要求を元に制定されたのですが、その内容は被爆者の要求を満たすものではありませんでした。その欠陥の主なものは次のとおりです。
(I)死没者への対応が完全に欠落していること。
(Ⅱ)国が行う医療の対象を放射線に起因する負傷・疾病などに限定し、熱線、爆風などによるケガや疾病を無視している事。
この「原爆医療法」制定から11年後に被爆者への諸手当などを定めた「被爆者特別置法」が制定されたのです。

「援護に関する法律」に引き継がれた欠陥
こうした欠陥に我慢できない被爆者は、繰り返しその是正を求めました。その結果、1994年12月にできたのが「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」だったのですが、この法律は、先に挙げた(I)と(Ⅱ)の欠陥をそのまま引き継いでいるのです。つまり、死没者への対応はゼロで、熱線・爆風によるケガや疾病は無視しているのです。これで良いはずはありません。

 今度こそ国家補償の被爆者援護法を!
来年は、原爆が投下された時に生まれた人が70歳になる年であり、20歳で被爆した人は90歳になる年です。もう私たちは持てません。今年から来年にかけて、長年の念願である『国家補償の被爆者援護法』を制定させましょう。


《原爆被害への國のつぐないを!》
久しぶりの街頭での行動
30分で54名が賛同署名に応じる

悪天候のため延期に延期を重ねてきた街頭での『国家補償の被爆者援護法を求める署名運動』は、ようやく8月1日に実施できましたが、あいにく台風12号が接近する中でしたので、天候も怪しく、30分の行動となりました。
午前11時に、恒例の署名運動の場所としている長崎駅前の高架広場に集まった12名は、早速、原爆の写真のパネルを掲げ、幟を立てて署名運動を開始、山田事務局長はマイクで通行人へ署名運動の趣旨を説明し、署名への協力を呼びかけました。
天候も悪かったせいもあってか、通行人の影は意外に少なかったのですが、それでも30分間の成果は、54名の署名となり、また合計700円のカンパも集まりました。長崎被災協では、これからもこうした取り組みを重ねてゆく予定です。


柿田事務局次長が訪米
=各地で被爆の証言へ=

柿田富美枝事務局次長は、広島の箕牧智之さんとともに日本被団協を代表して渡米することになり、8月4日の午前11時05分の便で成田を立ちました。
ワシントンーダレス空港へ着した当日は休養し、翌5日は、夕刻からキング牧師の記念像のある公園で箕牧さんとともに被爆の証言。
このあとも連日夕刻からの集会が組まれており、二人の被爆証言が行われます(なかには午後9時45分開会という会合も!)。
こうして二人は8月11日12時20分発の便で帰国の途につく予定です。


今こそ原爆被害への国の償いの実現へ!

 

長崎市の平成26年度版『原爆被爆対策概要』が発行されました。
昨年まで、「第3 原爆被爆者対策」の第1ページに「原爆者対策の基本理念」として掲げられていた「原子爆弾被爆者対策基本問題懇談会答申」が、今年は、「第3原爆被爆者対策」の末尾に「資料」として掲げるにとどめられています。どのような意味での「資料」なのか、つまりここに掲載した趣旨は明確ではありません。

「基本懇」とは・・・
「基本懇」とは、原爆被爆者対策基本問題懇談会の略ですが、そもそもこの「懇談会」が設置されたのは、その前年の3月に、最高裁が孫振斗訴訟の判決の中で、「原爆医療法には、国家補償的配慮が制度の根底にある」との判断を示したことに慌てた政府が、これを打ち消すためだったのです。「基本懇」答申は、従って「原爆は人間の想像を絶した地獄を現出した」といいながら、「およそ戦争という国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては、国民がその生命、身体、財産などについて、その戦争によって何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、それは、国を挙げての戦争による「一般の犠牲」として、全ての国民がひとしく受忍しなければならないところである」と言ったのでした。

「地獄の苦しみも、がまんしろ!」
「受忍」とは、「耐え忍ぶ」ことです。つまり「地獄の苦しみもがまんしろ」ということです。この「基本懇」の意見を受け入れた厚生労働省の被爆者対策は、実はこんなとんでもない考え、非常識というほかはない考えがその底にあったのです。
だから、死没者には弔慰金を出そうとしないし、原爆の被害者のやけどや爆風による打撲や負傷には目を向けようとせず、放射線によるケガは病気についても、放射線が目にも見えず、匂いもないのをいいことにして、簡単に「それは放射線によるものではないよ」と拒否してしまい、どうしても断れないものだけを「原爆症」として扱ってきたのです。

「原爆の被害への国家補償」の実現目指そう!
私たちは、1956年に組織を立ち上げて以来、「政府は私たちが被った原爆の被害を償え」と訴え続けてきました。
戦争は、私たちが始めたものではありません。国が始めた戦争、国がやめなかった戦争のために、私たちは被爆者になったのです。とすれば、国は私たちが被った被害を償うのが当たり前なのです。
いま政府は、日本を戦争のできる国にしようとしていますがヽいまこそ政府に向かって、かつての戦争の被害を償え!と声を上げる時ではないでしょうか。(山田拓民)


▶図書紹介

日本は戦争をするのか
集団的自衛権と自衛隊=半田 滋=  『岩波新書』

今年7月1日、安倍総理は記者会見で、これまでの憲法解釈を変更し、日本が攻撃されていなくても、同盟国が攻撃された場合には、実力でこれを反撃する権利を持つ、と判断する、と記者会見で明らかにしました。
これまで我が国は、他国から我が国の主権が侵害される場合に限って、これを阻止することが出来る、という「専守防衛」に減退していたものを大幅に拡大しようというもので、自衛隊の活動範囲も大きく様変わりすることになります。
ところで、今日ご紹介する岩波新書・『日本は戦争するのか』はこの安倍内閣の決定に先立つ今年5月20日に刊行されたものですが、私が購入した時には、すでに第3刷となっていました。私も著者がジャーナリストだけに、ポイントをおさえた記述には思わず引き込まれましたし、この欄でご紹介する気になったのでした。
それに「集団的自衛権」をめぐっては、すでに多くの新聞などで批判的な論調での記事が紹介されていますが、単に記事の拾い読みではなく、今の時代にどう向き合うべきかを真剣に考え、あるいは討論する上で、役に立つ本だと私は思ったのです。ご一読をお勧めします。 (山田 拓民)


7月のうごき

1日 日本被団協九州ブロック各県代表者会議・当面の取り組みについて(山田。柿田)
5日 平和宣言起草委員会(谷口)
9日 日本被団協・代表理事会 (山田)⇒10日まで
10日 日本被団協中央相談所理事会(横山)⇒11日まで
新聞『被団協』発送
12日 集団的自衛権をめぐる学習集会(山田)
13日 自治体研究所創立集会(山田)
17日 被団協被爆二世委員会(柿田)⇒18日まで
20日 横山茂樹弁護士を偲ぶ会(谷口・山田・柿田ほか)
22日 いきいきコープ理事会(柿田)
25日 『長崎の証言』編集会議(山田)
26日 二世の会・長崎原爆写真パネル展(27日まで)