2015年8月9日発行の新聞『被団協』382号の内容をご紹介します。

『戦争政策許さない』

平和への意気高く
今年の平和祈念式典終わる

被爆者5団体の要求へ政府が回答
毎年、この時期を前にして、政府に対し長崎の被爆者5団体 (長崎被災協、被爆者手帳友の
会、被爆者手帳友愛会、原爆遺族会、平和運動センター、被爆連)としての『要望書』を提出、8月9日に総理大臣、厚生労働大臣など政府関係担当者から政府
の回答を聞くことにしていますが、今年も8月9日の午後1時半から市内のホテルで開催され、被爆者側としては、戦争法案(政府のいう安全保障関連法案)は絶対に許せない、と強調するとともに、被爆者の要求実現を迫りました。
しかし、会合に当てられた時間は僅か30分で、その大半は総理大臣や厚生労働大臣らによる弁明(それも理由にならない釈明)に使われるため、政府の弁明に対しての質問の時間もなく、今年も内容がともなわないまま閉会となりました。
被爆者5団体では、今のようなやり取りでは埓が明かない、と、被爆者の代表が上京して要求を提起できないか、検討すべき時期に来ているのではないか、と話し合っているところです。
8月2日の「長崎新聞」に「九条改正反対7割」の見出しの記事を見つけましたので、ご参考までに拝借しました。8月以降に、1150人からの回答を得たそうです。


8月9日
谷口稜嘩さんが読み上げた
『平和への誓い』(全文)

70年前のこの日、この上空に投下されたアメリカの原爆によって、一瞬にして7万余の人々が殺されました。真っ黒く焼け焦げた死体。倒壊した建物の下から助けを求める声。肉はちぎれ、ぶらさがり、腸が露出している人。かぼちゃのように膨れあがった顔。眼(め)が飛び出している人。水を求め浦上川で命絶えた人々の群れ。この浦上の地は、一晩中火の海でした。地獄でした。
地獄はその後も続きました。火傷(やけど)や怪我(けが)もなかった人々が、肉親を捜して爆心地をさまよった人々が、救援・救護に駆け付けた人々が、突然体中に紫斑が出、血を吐きながら、死んでいきました。
70年前のこの日、私は16才。郵便配達をしていました。爆心地から1.8キロの住吉町を自転車で走っていた時でした。突然、背後から虹のような光が目に映り、強烈な爆風で吹き飛ばされ道路に叩(たた)きつけられました。
しばらくして起き上がってみると、私の左手は肩から手の先までボロ布を下げたように、皮膚が垂れ下がっていました。背中に手を当てると着ていた物は何もなくヌルヌルと焼けただれた皮膚がべっとり付いてきました。不思議なことに、傷からは一滴の血も出ず、痛みも全く感じませんでした。

それから2晩山の中で過ごし、3日目の朝やっと救助されました。3年7か月の病院生活、その内の1年9か月は背中一面大火傷のため、うつ伏(ぶ)せのままで死の淵(ふち)をさまよいました。

そのため私の胸は床擦れで骨まで腐りました。今でも胸は深くえぐり取ったようになり、肋骨(ろっこつ)の聞から心臓の動いているのが見えます。肺活量は人の半分近くだと言われています。
かろうじて生き残った者も、暮らしと健康を破壊され、病気との闘い、国の援護のないまま、12年間放置されました。アメリカのビキニ水爆実験の被害によって高まった原水爆禁止運動によって励まされた私たち被爆者は、1956年に被爆者の組織を立ち上げることができたのです。あの日、死体の山に入らなかった私は、被爆者の運動の中で生きてくることができました。
戦後日本は再び戦争はしない、武器は持たないと、世界に公約した「憲法」が制定されました。しかし、今,集団的自衛権の行使容認を押しつけ、憲法改正を押し進め、戦時中の時代に逆戻りしようとしています。今,政府が進めようとしている戦争につながる安保法案は、被爆者を始め平和を願う多くの人々が積み上げてきた核兵器廃絶の運動、思いを根底から覆そうとするもので、許すことはできません。
核兵器は残虐で人道に反する兵器です。廃絶すべきだということが、世界の圧倒的な声になっています。
私はこの70年の間に倒れた多くの仲間の遺志を引き継ぎ、戦争のない、核兵器のない世界の実現のため、生きている限り、戦争と原爆被害の生き証人の一人として、その実相を世界中に語り続けることを、平和を願うすべての皆さんの前で心から誓います。


「親子で考える 被爆70年-被爆者からのメッセージ継承・警鐘」
被災協と二世の会共催

被爆70年を記念し、8月1日13時半より16時まで長崎原爆資料館ホールで長崎被災協と二世の会の共催で集会を開催しました。

4月に実行委員会を被爆者と二世10名で立ち上げ、話し合いを重ねました。集会テーマの継承にふさわしい取り組みとなり、220人が参加しました。

オープニングの長崎南山小学校コーラス部40人による合唱「祈り」など2曲は心を洗われる美しい平和の歌声でした。
続いて「私にとっての被爆70年とは」という演題で熊本県被団協顧問の中山高光氏が記念講演を行いました。

戦争を始めた日本の責任、アジアを始め多くの国々に被害を与えたことの謝罪をおこなってから被爆体験を話すと中山氏は言います。それはペルーで生まれ、戦争によって翻弄された両親の生活からも言えることでした。
中山さんの真摯な証言は今回のNPT代表で訪問した米国の中学校の生徒たちや、「世界経済フォーラム」職員たちの中で中国人を夫に持つ日本人の心にも深く響きました。中山さんが歩んでこられた被爆者運動の歴史、人生観に触れることができた有意義な講演でした。
被爆二世の会・長崎、諌早の会会員10名が被爆者からのメッセージ(NPT再検討会議に向けての訴えの冊子より抜粋)を読み上げました。
そのあと、平和、戦争、継承、警鐘について、コーディネーターの横山照子理事の問いかけで、パネラーの高校生の福留春歌さん、大学生の久保山弘美さん、青年の佐々木泰三さん、被爆二世の大宮美喜夫さんの4人が意見を出し合い、交流し、ともに考えるというパネルディスカッションを行いました。
若い人たちの頼もしい発言に被爆者たちは元気をもらいました。

被爆二世の会では山里小学校、高尾小学校の学童クラブの子どもだちと今年3月から月1度、この集会に向けて平和のとり組みを行ってきました。
被爆体験を聞き、高校生1万人署名のメンバーやNPT代表だった長大生に参加してもらい交流を深めてきました。

子ども達は3つの学童クラブのそれぞれ自分たちで考えて作った「ぼくたち、わたしたちの平和宣言」を集会の最後に発表してくれました。

会場からのアンケートには若い世代とともに構成された良い集会だった、またこのような集会を続けて開催してほしいなどの要望も書かれていました。


被爆70年記念誌8月9日発刊

これまでに被爆して亡くなられたすべての被爆者へ鎮魂 の思いを込めて作りました。
一橋大学名誉教授の演谷正晴氏の特別寄稿「長崎被爆者の戦後70年に寄せる」をはじめ、被爆者と二世6名で50名が寄稿しました。戦争のできる国づくりを許してはならないという思いを込めたこの1冊をぜひお買い求めください
1冊1,500円,送料360円です。メールやハガキや電話等でご連絡ください。


ノーモア・ヒバクシャ訴訟

民主党・高木義明衆院議員へ要請

森永弁護団事務局長、長崎被災協谷口会長ら九人で、長崎へ帰省中の高木議員を訪問し原爆症認定制度の改正、訴訟解決のための協力・要請を行いました。
高木議員は民主党の国対委員長をされ、国会は安保法案で緊迫している状況の中での貴重な時間を割いていただき、面会することができました。


7月の活動報告

1日~2日 被団協代表理事会(山田)
6日 ララコーブNPT佐世保報告会 (田中、柿田)
8日 市議会傍聴
9日 県議会傍聴、新聞発送
11日 長崎市平和宣言起草委員会 (谷口、佐藤)
山里小学童クラブとの平和の取り組み、
ララコーブNPT長崎報告会(田中、柿田)
12日 高木義明議員へ
(ノーモアヒバクシャ訴訟・要請 原告団、谷口、山田、森内、横山)
15日 被爆者5団体記者会見
18日 ララコーブNPT諌早報告会(田中、柿田)
22日 被爆70年実行委、被爆70年記念誌編集会議
NPT報告市長訪問(田中、原水協、生協と)
24日 第1回理事会
27日 被爆70年記念誌編集会議70年集会
31日 被爆70年集会準備作業

九州ブロック相談事業講習会 今年は長崎で開催されます

 とき 12月5日(土)~6日日)
ところ ホテル清風

九州各地から被爆者、2世が集まり、被爆者の制度活用や今の問題について学習、交流します、(1泊2日 1万5千円)申し込みは被災協でどうぞ。