2012年12月9日発行の新聞『被団協』350号の内容をご紹介します。

当面の課題へのとりくみを決定
衆議院選挙への対応も協議 被災協第4回理事会ひらく

 長崎被災協は、11月28日に本年度第4回の理事会を開き当面の取り組みなどを協議、決定しました。
決定した主な内容は次のとおり。

① 制度の法人(一般財団法人)への移行をめざして
2014年4月に移行できるよう準備をすすめることを確認しました。

② 核兵器廃絶と原爆被害への国家補償実現をめざすとりくみについて
被爆70周年の2015年までに国家補償援護法の実現を目指しとりくみます。そのため、学習会を開催するとともに、街頭での宣伝行動にも取り組みます。
その第1回の期日を1月12日(土)とし、長崎駅前高架広場で、他の団体へも呼びかけ、午後2時から3時まで実施します。
あわせて「日本被団協50年史」、写真パネル「人間と原爆」の普及にとりくます。

③ 衆議院議員選挙が近づきました。
乱立する政党、入り乱れる政策の中での選挙ですが、憲法改正、自衛隊の国防軍化などが方針に掲げられていることを重視し、各党の政策を冷静に見つめ、棄権することなく選挙に望むことを確認しました。

④ 短い審査時間、理由を示せない却下通知など問題の多い原爆症認定制度です。
私たちは、諦めることなく是正を目指し取り組みます。

⑤ 国連での34カ国の核兵器の非合法化をめざす提案に賛同しなかった日本政府への抗議文送付について
出席理事全員異議がなかったので、11月30日、抗議文を総理あてに送付しました。

⑥ その他
12月8日午前10時30分から爆心地公園南端の不戦の碑前での不戦の集いへの案内

なお、長崎被災協では、長崎大学核兵器廃絶研究センターのご好意で、「34カ国声明」の英語版と日本語訳を入手、11月に予定している理事会でも、この声明の内容と日本政府の対応、日本被団協の声明について、意見を交換する予定です。


 ◇ 総理大臣へ送った抗議文 

日本政府はあらゆる機会に、核兵器廃絶への先頭に立て

ことし10月22日(ニューヨーク時間)、国連総会の場で、核兵器の非人道性を明らかにするとともに、核兵器を非合法化する努力の強化を促す34カ国の共同声明が発表されました。この声明の案文は事前に日本政府にも示され、賛同が求められたにもかかわらず、日本政府はこれを拒否したと経過を知り私たち被爆者は愕然としました。

私たちは日本政府こそこのような趣旨の声明の発起人となり、世界の核兵器保有国に毅撚とした態度を示すべきだと思いますが、日本政府はいつから核兵器保有国の露払いを担うようになったのでしょうか。

あの原爆の惨状から67年経過した今でも、目を閉じると、重傷者はもとより、かすり傷さえなかった人たちも、得体の知れない病に侵され、バタパタと倒れていった状況が瞼に浮かびます。あの惨状を直接はご存じないとしても、日本の政治に携わる者として、どうしてあの地獄の再現を許すな、と言えないのでしょうか。

最近、政治家の中には、核兵器保有をほのめかす動きも見え始めました。政府が今回の34カ国声明に賛同しなかったのは、そのような影の動きに影響されたものとは思いたくありませんが、私たちは政府が賛同を拒んだという事実を知った時、心の底からの憤りを禁じえませんでした。

私たちは、34か国声明が、私たち被爆者の願いの実現に大きな力となることを確信するとともに、日本政府が、今後、あらゆる機会に核兵器廃絶の先頭に立つよう求めてやみません。

2012年11月28日
長崎原爆被災者協議会 2012年度 第4回理事会

 ◇ どうして総理へ抗議したの? 

 「34カ国署名の共同声明」はその末尾でこう述べていします。「最も重要なことは、このような核兵器がいかなる状況下においても二度と使用されないことです。(中略)すべての国家は、核兵器を非合法化し、核兵器のない世界を実現するための努力を強めなければなりません」
これは核兵器廃絶への、具体的な一歩を示すものであり、これを拒んだ日本政府を許せないと思ったからなのです。


被爆者運動の継承めざし
=九州各県から60各参集=
成功した長崎での「二世のつどい」

 11月17日・18日の二日間、被災協の講堂で「二世の会し」の「被爆者運動の継承の学習・交流会」がひらかれ、九州各県の二世の会(準備会を含む)から17日には61名、18日には40名が参加しました。

一日目は、山口仙二さんの活躍を映像で紹介した後、日本被団協事務局次長木戸季市さんが、「私と被爆者運動・次の世代に残すもの」のテーマで、被爆した当時、ついで被爆者を意識する中での恐れと不安、さらに被爆者として生きることを自覚した今、を語り、さらに山田事務局長は、様々な困難を乗り越えて到達した日本被団協の「いま」とその課題を報告、最後に第l次・第2次原爆症認定訴訟に取り組んだ熊本県被団協事務局長中山高光さんは、裁判の意義を訴えるとともに、私たちの運動はアジアを無視した取り組みとなっていないかと、指摘しました。

二日目は、長崎の被爆者広瀬さん、同二世の柿田さん、鹿児島の二世大山さんの発言を受けて、二世の運動の現状と課題につて話し合い、二日間の「つどい」の成功を確認、閉会しました。


今度こそ、国家補償の「援護法」を!
《「二世」学習交流会での報告要旨》
事務局長 山田 拓民

1945年9月6日、アメリカ車の准将ファーレルは東京の帝国ホテルで「広島・長崎では、死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能のため苦しんでいるものは皆無だ」という声明を発表、日本政府も10月5日広島で、同8日長崎で、戦時災害保護法の適用を打ち切り、同法に基づいて設置されていた救護所を閉鎖、住むところもなく、得体の知れない病気やケガに苦しむ被爆者を、まさに放置したのです。

被爆者団体の結成と原爆医療法の制定
 1954年3月1日の南太平ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験で第五福竜丸など日本漁船が被爆、犠牲者も出たことを契機に広がった原水爆反対のうねりの中で、55年8月には広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれ、励まされた被爆者は、翌年5月広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)を、6月には長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)をそれぞれ立ち上げました。
さらに同年8月には、第2回原水爆禁止世界大会が開かれた長崎の地で日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)を結成、日本被団協結成当日発表された決議文では、第1項に「原水爆とその実験の禁止」が、第2項に「原水爆被害者援護法制定」が掲げられたのです。
そして1957年3月、「原爆医療法」が制定されました。こんなに早く一つの法律ができたのは、被爆者や原水爆禁止世界大会に結集した人々を中心とした運動の盛り上がりがあったことと同時に、政府の側にも、先延ばしていると国家補償の被爆者援護法を作らざるを得なくなるという不安があったからといえるでしょう。
制定された原爆医療法は、被爆地域の指定もいい加減だったし、最大の犠牲者・原爆死没者への対応を欠き、爆風、熱線などによる被害を・無視するものでしたが、不十分ではあれ、市民の戦争被害へ向き合った法律としては画期的なものでした。

被団協、国家補償の被爆者援護法の内容を提示
原爆医療法制定から9年7ケ月後の1966年10月1日、日本被団協は、原爆被害の特質を明らかにするとともに国家補償の「被爆者援護法」の内容を示した文書(つるパンフ) を発行、被爆者の要求と運動は、さらに力強い一歩を踏み出したのです。

最高裁で原爆医療法に国家補償的配慮ありの判決が…
その後、市民の戦争被害に政府はどう向き合うべきか、をめぐって相反する最高裁判決が出ました。一つは「国民は我慢しろ」という内容の1968年11月の判決で、これまでの戦争被害受忍論に沿った判決。もう一つはその10年後の3月の判決で 「原爆医療法には、国家補償的配慮が制度の根底にあることは否定できない」という内容でした。

慌てた厚生省、基本懇を設置
この1978年の最高裁判決に、政府は慌てました。そして厚生省は、1968年の最高裁判決時の最高裁裁判官の一人を中心に、総勢7名の委員を選び、原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)を設置、1978年最高裁判決への対応を検討したのです。

基本懇が受忍論に基づ<「意見」を発表
1980年12月11日、基本懇は、「およそ戦争という国の存亡をかけての非常事態の下においては、国民がその生命、身体、財産等について、その戦争によって、何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、それは、国を挙げての戦争による〈一般の犠牲〉として、すべての国民がひとしく受忍しなければならないところであって…国の不法行為責任など法律上の責任を追及し、その法律的救済を求める途は開かれていないというほかはない」という「意見」を発表しました。30年後この懇談会での品のない議論の内容が明らかにされました。

日本被団協は直ちに反撃へ、
この基本懇答申に対し日本被団協は、「見解」を発表、戦争被害受任論は戦争肯定論と指摘、その後、原爆投下の国際法違反を告発し、国の戦争責任を明らかにする「国民法廷運動」にとりくむなどの中から1984年には「原爆被害者の基本要求」を発表、全国的に壮大な運動を展開する中で、この長崎では県選出の全国会議員から被爆者が求める国家補償の被爆者援護法への賛同を取り付け、当時の80にも及ぶ県市町村議会すべてでの被爆者援護法制定促進決議に成功したのでした。

被爆70周年の年をめざし、国家補償の援護法を!
こうした中で、「援護に関する法律」は、出来ましたが、残念なことにそれは、私たち被爆者が求めか「国家補償の被爆者援護法」ではありませんでした。そしていま、被爆70周年の2015年をめざし、今度こそ「国家補償の被爆者援護法」制定を実現しようと、いま全国で取り組んでいるところです。