2010年12月9日発行の新聞『被団協』326号の内容をご紹介します。

 
 日本被団協が特別賞を受賞 
=ノーベル平和賞受賞者サミット=

11月12日から14日まで広島市で開かれていたノーベル平和賞受賞者世界サミットは、最終日の14日、各国政府へ核兵器廃絶のための条約交渉を開始するよう求める「広島宣言」を発表するとともに、核兵器廃絶を国の内外で訴え続けてきた功績をたたえ、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)へ「特別賞」を贈りました。
日本被団協からは、代表委員・坪井 直さん(広島)、谷口稜曄さん(長崎)が授賞式に出席し、人の手の形をかたどったというトロフィーを受け取りました。
なお、同時にアウンサンスーチーさんの解放運動にとりくんだイタリアのロベルト・バッジオさんへは「平和サミット賞」送られました。

ノーベル平和賞受賞者世界サミットとは…
サミットとは、「会議」のことでノーベル平和賞を受賞した人たちを中心に、当面している平和問題、人権問題などについて、討論の場を提供するものです。
1999年にローマで開催されたのが、第1回で、2007年まではローマで開催されてきましたが、その後サミットでの討論の内容にふさわしい都市が選ばれるようになり、ことしは原爆が戦争に用いられて65年年目の年というわけで広島市が選ばれたのでした。
ことし採択された「広島宣言」では、「核兵器の使用は人道に対する犯罪であり、禁止されなければならない」と明確に主張し、「核抑止力などを根拠に核兵器の保有を正当化する議論は到底通用しない」と指摘、核兵器の全面禁止へむけての条約の策定を求めています。

 



 基本懇30周年を前に
被災協、学習集会ひらく  

基本懇(被爆者対策基本問題懇談会)が政府の求めに応じて「意見」を発表し、改めて「戦争の被害は国民はガマンするのが当然」という主張を明らかにしてから30年目のl2月を前にして、長崎被災協は、11月27日(土)午後2時から、長崎被災協・講堂で、改めて《基本懇・意見》を考える学習集会『現行法の背景となっている「基本懇意見」とはをひらきました。
報告者山田拓民事務局長は1978年の最高裁判決、当時燃え上がった被爆者を中心とする核兵器廃絶と国家補僚の被爆者援護法制定の嵐のような運動の盛り上がりの中で危機感を募らせた政府・厚生省が、戦争被害受忍論を貫徹させようとなりふりかまわず仕組んだのが「基本懇」であり、その「意見」だったという背景を明らかにし、戦争の被害、原爆の被害を国が償う制度を確立することこそ、日本国憲法にかなう道だと報告しました。

日本被団協も14日にシンポジウム
 日本被団協も、基本懇・答申が発表された12月11日の翌日(12月12日)、東京・四谷の主婦会館で、基本懇答申30年シンポジウム『私たちは受忍しない』を開催します。
このシンポジウムに、長崎からは、山田事務局長と柿田事務局次長が参加します。


 

■特集■ 基本懇・答申」から30年…

 『基本懇・答申』-耳なれない言葉かもしれませんが、当時の厚生大臣の私的諮問機関である「原爆被爆者対策基本問題懇談会」が1年半の討議ののち、いまから30年前の昭和55年(1980年)12月11日に厚生大臣へ提出した「原爆被爆者対策の基本理念及び基本的在り方について」という文書のことなのです。「基本懇」とは、「原爆被爆者対策基本問題懇談会」の略なのです。

その基本懇がこの文書でいう被爆者対策とは
その文書はこういっています。

① 戦争によって国民が生命・身体・財産に損失を被ったとしても、それは全ての国民ががまんすべきことであって、法律上、救済を求める道はない。
ただ、1978年の最高裁判決も言っているように、原爆被害は特殊な被害だから、国が広い意味での国家補償の立場から適切な措置をするのは妥当なことである。

②  ただ広い意味での国家補償とは第一に国の戦争責任を追及したりするものではなく、第二に、こうした措置は国民の税金で賄われるのだし、その国民のほとんどは戦争で被害を受けているのだから、原爆の被害が特殊だからといって、他の戦争被害者との間に不均衡を生じるものであってはならない。
また第三に、被爆者対策は国が行うものだけど、その内容は被爆者の福祉にかかわることだから、県や市町村も協力すべきである。
なお旧軍人と同等な措置を望む声もあるが、これは全く別物である。

なぜ、この時期にこんな文章が必要だったのか
当時は、原爆医療法などを改正し、国家補償の被爆者援護法をつくれ、という運動が大きく盛り上がつていました。
国会への要請署名も800万を超え、長崎の代議士も1名を除いて全員が賛同し、県下すべての市町村議会も決議したのでした。
こうして厚生省は、完全に追い込まれていたのです。

そこへ最高裁判所の判決までも…
そんなとき「原爆医療法には国家補償的配慮がある」という最高裁の判決が出たのです。(下記参照)

戦争被害受忍論をめぐる最高裁での2種類の判決

戦争被害受忍論に立つ判決
ところで、戦争中から戦後占領時代にかけての国の存亡にかかわる非常事態にあっては、国民のすべてが多かれ少なかれ、その生命・身体・財産の犠牲を堪え忍ぶべく余儀なくされていたのであって、これらの犠牲は、いずれも戦争犠牲または戦争損害として、国民のひとしく受忍しなければならなかったところであり、右の在外資産の賠償への充当による損害のごときも、一種の戦争損害として、これに対する補償は、憲法の全く予想しないところというべきである。 (1968年の判決)

原爆医療法に国家補償的配慮を認めた判決
原爆医療法は……原子爆弾の被曝による健康上の障害がかつて例をみない特異かつ深刻なものであることと並んで、かかる障害が遡れば戦争という国の行為によってもたらされたものであり、しかも、被爆者の多くが今なお生活上一般の戦争被害者よりも不安定な状態に置かれているという事実を見逃すことはできない。
原爆医療法は、このような特殊の戦争被害について戦争遂行主体であつた国が自らの責任によりその救済をはかるという一面をも有するものであり、その点では実質的に国家
補償的配慮が制度の根底にあることは、これを否定することができないのである。  (1978年の判決)

そこで厚生省は、元東大総長や元最高裁裁判官らをいれた委員会をつくって、最高裁に対抗する独自の判断を示したのが 「基本懇・意見」だったのです。

「基本懇・意見」はいまも生きている
それでも被爆者やそれを支持する市民の運動は、たかまりました。
とうとう厚生省は、原爆医療法、特別措置法に代わる法律を作らざるを得なくなりました。そうしてできたのが「被爆者の援護に関する法律」でした。
1994年にできたこの法律は、その後、「被爆者援護法」と略称されるようになりましたが、その内容は被爆者が求めてきた国家補併の被爆者援護法ではなく、原爆医療法+特別措置法であり、基本懇・意見にそって国家補償を排除した内容でした。

今度こそ、国家補償の被爆者援護法を

日本被団協では、昨年からいまの「援護に関する法律」から「国家補償の援護法」へと検討を開始しました。
どんな内容を盛り込むかと、10月には全国都道府県代表者会議を開きました。
『基本懇・答申』から30年。いよいよ私たちの運動も、正念場を迎えます。
(山田拓民)


長崎被災協11月の動き

1日 「被爆者が求める『援護法』」について、被爆体験者集会で報告 (山田)
6日 医療法人健友会総会に出席 (山田)
医療と福祉を考える会総会に出席 (柿田)
8日 新聞『被団協』発送作業
9日 九州ブロック相談事業講習会・佐賀県嬉野→10日まで
13日 保育関係者団体の全国集会で講演 (山田)
全国弁護団・原告団・支援団体代表者会議 (柿田)
14日 広島での日本被団協の『平和特別賞』授賞式に出席 (谷口)
20日 日本被団協主催で「法」改正をめぐって専門家、関係団体代表との懇談会 (山田)
24日 いきいきコープ理事会 (柿田)
25日 山口仙二氏らの長崎新聞文化章授章式 (谷口・山田)
「医療と福祉を考える懇談会」でのガイドブック編集委員会に出席 (柿田)
27日 「基本憩・意見」をめぐっての学習集会(報告者・山田)