巡ってきた68年目の夏
=国家補償の「援護法」制定へ=
新たな意気込みで一歩を踏み出そう
今年7月に長崎市が発行した『原爆被害者対策事業概要』の「第3原爆被爆者対策」には、「原爆被爆者対策の理念」として1980年12月11日に発表された、あの悪名高い厚生労働大臣の諮問機関・原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)の答申の全文が掲載されています。長崎市はいつから、こんなものを被爆者対策の理念に掲げるようになったのでしょうか。
この基本懇答申は、1978年の3月3日の最高裁判決が、「原爆医療法は、このような特殊の戦争被害について戦争遂行主体であつた国が自らの責任によりその救済を図るという一面を有するのであり、その点では実質的に国家補償的配慮が制度の根底にあることはこれを否定することができないのである。」と指摘したことに対する反論として作成されたものですが、それだけに「戦争という国を挙げての非常事態のもとにおいては、国民がその戦争よって何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、すべての国民が受忍すべきであって、法的な救済の道は開かれていない」(受忍=がまん)というものです。
こんな長崎市の姿勢を根本から立て直すためにも、私たちは、国家補償の被爆者援護法制定を目指し、新たな意気込みで大きな一歩を踏み出そうではありませんか
二世の会・長崎が原爆写真展を開催
2日間で400人入場
「長崎被災協・被爆二世の会・長崎」は、7月27日(土)・28日(日)の両日、長崎被災協2階会議室で 「ヒロシマ・ナガサキ原爆と人間・写真パネル展」を開催しました。
また、7月6日に亡くなった山口仙二被災協顧問の写真や著作なども展示し、在りし日を偲びました。
会場には、平和公園を訪れた観光客に、インドや中国など様々な国の人たちも加わり2日間で400名近くの人たちが入場しました。
展示会場では、親子で真剣に写真パネルに見入り、平和の灯火キャンドルの絵付けコーナーでは小学生たちがキャンドルに絵やメッセージを描き、本のコーナーでは親子で平和の絵本を読む姿もありました。
また、会場入口の被爆者の店の前では、平和の歌を演奏するボランティアのグループが両日で10組参加し、心に響く歌を披露しました。
会場へ足を運んだ人たちは「原爆の悲惨さを実感した」「平和を考える良い機会になった」などの感想を寄せていました。二世の会ではこれからも、年に数回写真展を開催する予定です。
(柿田 富美枝)
長崎被災協の先頭に立ち日本の被爆者運動を支えた
山口 仙二さん逝去
長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)結成に際しては呼びかけ人の一人として名を連ねたのをはじめ、それに先立っての原爆青年の会、原爆青年乙女の会の結成と運営にもカを注ぎ、1984年6月から1997年5月までは長崎被災協の会長として、その後は顧問として、長崎原爆被災者協読会の運動をりード、また日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)にあっては、1981年度以降は代表委員の一人に選任され、日本の被爆者運動の発展に全力を尽くしてこられた山口仙二氏は、去る7月6日、長崎県雲仙市小浜町で心不全のため逝去されました。享年82歳でした。
山口仙二氏は、また、国際的な活動においても尽力され、あの国連の議場での「ノー・モア・ヒバクシヤ、ノー・モア・ウォー」の声は、多くの人たちの心に感銘を与えたのでした。
同月8日午後1時から同町来迎舎小浜斎場で営まれた葬儀には、100人を越える参列者が集い、山口仙二氏の
逝去を悼みました。
長崎被災協では、9月末に「山口仙二氏を偲ぶ会」をひらこうと、目下計画を進めています。
原爆症認定が法廷へ
「厚労省の審査は納得ができない」
長崎市の山本さんが決意
長崎市立山2丁目の被爆者山本 寛さん(73歳)は、原爆症としての認定を求めて裁判を起こすことを決意、それを知った弁護士有志は弁護団(団長・原 章夫弁護士)を結成して、目下提訴の準備が進められています。
山本さんか厚生労働大臣へ原爆症としての認定を申請したのは、2008年4月9日、2年後の2010年3月に却下され、直ちに異義を申し立てたものの、今年(2013年)に入ってその異議も棄却されたため、最後の手段として訴訟を決意したものです。
山本さんが被爆したのは、5歳の時。当時も立山町に住んでいて(爆心から2・5キロ)、自宅の前(戸外)で遊んでいる時でした。特にけがはなかったようですが、防空壕は満員で、家族と共に金毘羅山に避難、2~3日畑の中で過ごしたとの事です。金毘羅山では、その後下痢と嘔吐と発熱で動けなくなったようです。
原爆症と申請した病気は「心筋梗塞」ですが、この病気が見つかったのは2005年12月のことでした。突然の激しい胸痛に、救急車で搬送され、手術を受け、1ケ月半ほど入院し、退院しましたが、その後も、入退院を繰り返しています。
2008年につくられた「新しい審査の方針」では「被爆地点が爆心地より3.5km以内である着から、以下の疾病についての申請がある場合には、格段に反対すべき事由がない限り、申請疾病と放射線との関係を積極的に認定する」として、7つの病名が示されていて、そこに掲げられている病名の中に「心筋梗塞」もあるのです。山本さんが、厚生労働大臣の却下や棄却に納得しなかったのは、当然と言えるでしょう。
7月29日に開かれた長崎被災協の理事会では、私たちもこの裁判を支援することを決定しました。具体的な支援の内容は、今後、話し合いながら決めていきます。
提訴の期日は、8月21日の予定です。
大阪地裁で、原告の被爆者8人、全員勝訴
原爆症認定審査で却下したのは違法として提訴した被爆者8人全員が、8月2日、大阪地裁で却下処分を取り消すという勝訴の判決を勝ち取りました。
提訴した原告の中には、3名の「心筋梗塞」(被爆距離は、2.5キロ、3.6キロ、4.5キロ)が含まれていて、いずれも勝訴です。
政府に守らせよう あの「確認書」
今から4年前の集団詐取終結時に交わされたのが左の「確認書」です。その第4項には、「今後、訴訟の場で争う必要のないよう、定期協義の場を通じて解決を図る」と記されています。裁判に訴えなくても話し合いで解決を図るということです。
ところがこの合意は機能していないのです。問題解決のための協議は、一回も開かれていません。
署名した当時の総理大臣は、今の内閣でも重要ポストについています。
約束は守らせようではありませんか。 (山田拓民)
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