2011年6月9日発行の新聞『被団協』332号の内容をご紹介します。

 結成55周年を迎えた長崎被災協 
=なくせ、核兵器・国家補償の援護法を!=
6月25日11時から記念の祝賀会

 1956(昭和31)年6月23日午後7時、長崎市浜口町の国際文化会館講堂で、約1000人の参加者がガッチリとスクラムを組んだと当時の「長崎民友新聞」は、長崎被災協結成集会の模様を報道しています。下に掲げたのが、この結成集会を呼びかけたチラシです。

《55年前、市内の各家庭に配布された長崎被災協結成を呼びかけるチラシ》

このチラシには、2回も「国家補償」の言葉が使われています。「国家補償の被爆者対策を!」 は、長崎被災協の発足当時からの願いだったのです。
それから55年、私たちは、結成のときの願いの実現をめざし、「核兵器なくせ」「国家補償の被爆者援護法を」と、5月25日に開催した第59回定例評議員会でも決意を新たにしたところです。
長崎被災協は、6月25日の午前11時から法倫会館別館ホール・リアン(長崎市茂里町4・1)で、「結成55周年記念の集い」を開きます。

 


今年度の運動方針など決定
第9回定例委員会

 長崎被災協は、5月25日午後2時から地階講堂で第59回定例評議員会を開き、昨年度のとりくみや会計決算・監査報告を承認するとともに、本年度の活動方針、予算を決定しました。

昨年度のとりくみの特徴

 昨年度の運動の大きな特徴は、あるべき「被爆者援護法」とは何かの議論が全国的にも進み、長崎でも秋口に連続学習集会を開催、国家補償の被爆者援護法とは何かを明らかにしたことでした。
また、修学旅行生などを対象にした「被爆体験講話」活動についても、対象者が2万人を超える実績を維持しています。

今年度の方針

①憲法を守り、核兵器廃絶の実現をめざす。
②国家補償の被爆者援護法の実現をめざす。
③現法化下での政府の不当な被爆者行政を許さない。
④原爆被害の実態を語り伝えるとともに、福島原発事故については被害隠しを許さず、完全な補償実現を迫る。
原子力発電所の新設に反対し、自然エネルギー活用への政策転換を求める、など6項目の課題を決め、二世、三世とも手を携え、運動を前進させることになりました。

 


アメリカの核実験に抗議

 

5月25日に開催した長崎被災協第59回定例評議員会は、アメリカが昨年から今年にかけて、新しいタイプの核実験を行ったことが明らかになったことについて、それが核兵器をいつでも使える状態にしておくためのものであると指摘、アメリカの態度をきびしく批判する抗議文を採択し、昨年に続いて核実験を強行したオバマ大統領に対し、郵送しました。
また、長崎の被爆者5団体(被災協、手帳友の会、手帳友愛会、原爆遺族会、平和運動センター被爆連)は、27日、記者会見を行い、「私たち長崎の被爆者はこのようなアメリカの背信的行為に強く抗議する」と決意を表明、「速やかに核兵器を廃絶し、非軍事・平和的外交に徹することを要求する」とオバマ大統領宛に抗議文を送付しました。

 



 7月に『支援する会』が解散総会 

集団訴訟が成果を収めて終結したのに伴い、「原爆症認定集団訴訟を支援する会」も解散することになり、7月23日(土)午前11時から、ホテル・ニュータンダ(長崎市常磐町2・24)・で最後の総会を開催、終了後懇親会を開くことになりました。

 


国家補償の被爆者援護法制定は長崎被災協結成以来の願い

 長崎被災協・日本被団協にとって、「国家補償の被爆者援護法」制定は、組織結成以来の願いなのです。
この願いは実は前文で「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにする」という決意を示し、第9条で「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定めた日本国憲法をもつ国民にとって当然の要求であり、これを遵守することは、そのような憲法をもつ日本の政府として、これまた当然の務めなのです。

国家補償は当然の要求

国家補償」とは、「国による償い」のことです。 国が起こした戦争によって原爆が投下され、かつて人間が経験したこともない苦しみ、悲しみを体験した私たちに国は謝罪し、何がしかの金銭を支払い、医療が必要な人には医療を給付し、絶対に二度と戦争なんかはしないと誓う、そういうことを私たち被爆者は国に求めてきたのです。

いまの法律は 欠陥法律

すでに17年前に「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」というのができたじゃないか、という方もいらっしゃるかもしれません。ところが前文で「核兵器の究極的廃絶」 を唱え、原爆の被害の中の「放射線に起因する健康被害」だけに目を向けるこの法律は、被爆者対策としては『欠陥法律』なのです。

私たらが求める「被爆者援護法」

戦争を起こした国としての責任を自覚するなら、政府は原爆死没者と遺族、被爆者に謝罪し、二度と国民をこんな目に合わせない誓いを示すべきなのです。
長崎被災協・日本被団協を結成して55年、私たちは、いま、そのような内容の被爆者援護法を求めているのです。
私たちのとりくみは、「戦争被害受忍論」そのものを崩壊させるでしょう。
(山田拓民)



 署名・募金運動にご協力ありがとうございました。 






 長崎被災協55年の歩み 
(1) 1956~1968

1956年 5月 3日
長崎原爆青年乙女の会結成
1956年 6月23日
長崎原爆被災者協議会結成
1956年 8月10日
日本原水爆被害者団体協議会結成
1956年12月30日
日本原水協が提唱した「原水爆禁止、被爆者援護法制定、原子兵器持ち込み・原水爆基地化反対」の国会請願講堂に長崎からも代表が参加
1957年 3月31日
「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)制定
1957年11月 1日
日本被団協が「原爆医療法」の改正を求めて国会請願
1963年 3月27日
アメリカの原子力潜水艦の寄港を政府が認めたことに対し、長崎被災協が寄港反対の声明を発表
1964年5月 29日
長崎被災協が財団法人となる。
1964年10月16日
中国が核実験。長崎被災協も中国へ抗議の電報を打電。
1965年
被爆から20年目のこの年、ことしこそは国家補償の被爆者援護法を!の要求は高まった。
1966年3月10日
日本自転車振興会の補助を受け、『被爆者会館』が竣工し、長崎の被爆者運動の拠点となった。
1966年10月15日
日本被団協が国家補償の被爆者援護法の内容を整理し、「原爆被害の特質と被爆者援護法の要求」を発表した(一般に「つるパンフ」とよばれる)。

1968年5月 20日
諸手当を定めた『原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律』(被爆者特別措置法)制定。

 



長崎被災協4月の動き

 

3日 憲法記念日・九条フェスタ

4日 九条さるく
8日 県原水協総会であいさつ(山田)
9日 諌早被災協総会(谷口・山田)
10日 日本被団協代表理事会(谷口・山田)→11日まで
11日 監査
13日 第1回理事会
16日 厚生労働大臣への要望書について長崎市担当者と被爆者団体の協議(谷口・山田))
18日 被爆者団休と県・市担当者との懇談(谷口・山田)
19日 原爆症裁判を支援する会運営委員会(谷口、山田、柿田)
23日 55周年集会企画委員会(坂本・池田・田中・道下・山田・柿田)
24日 いきいきコープ理事会(柿田)
25日 第2回理事会・第59回評議員会
27日 アメリカの核実験への抗議について被爆者5団体で記者会見(山田)
28日 地球市民集会実行委員会(谷口・山田)
29日 アメリカの核実験に抗議する座り込み