2014年3月9日発行の新聞『被団協』365号の内容をご紹介します。

ビキニ水爆実験から60年
被害の実態、今なお秘匿

1954年3月1日、南太平洋ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験は、住民に多大の被害を与えただけではなく、いわゆる危険水域の外にいた第五福竜丸など約1000隻ともいわれる日本漁船の乗組員も、直接、放射線被害を被り、収穫した大量の魚なども破棄されたのでした。
そしてその年の9月23日、第五福竜丸の無線長久保山愛吉さんが放射線による疾患のため死去されるに至ったことは、今なお私たちの記憶に残るところです。

日本政府も被害隠蔽に関与?
ことしは、それから60年目の年です。
このビキニ事件は、いろんな不可解な内容を含んでいます。たとえば、第五福竜丸のことは、東京・江東区の《夢の島》には展示館もあり、当時の第五福竜丸にも会えるのですが、1000隻といわれる被爆した日本の漁船については、船の名前も、乗組員の名前も数も、そしてその後についても、全く闇の中に葬られているのです。
このことについて今年2月28日付けの『長崎新聞』は、ビキニ事件の翌年・1955年夏にジュネーブで開かれた「第1回原子力平和利用国際会議」について、当時のダレス国務長官が「日本は広島、長崎、ビキニでの影響に関する発表用論文を会議に提出する考えだ。国務省と原子力委員会は強く反対する」という内容の公電を送ってきたので、日本政府は、いくつかの論文の撤回を決め、米側に説明したということが「米公文書」でわかった、と述べています。
つまり、アメリカの原水爆の被害隠しに、日本政府は加担したというわけで、このことはこのあとの日本政府の被爆者対策にも影響を与えたのではないでしょうか。

いまにつながるビキニ事件
『東京電力の福島原発事故につながる日本の原子力開発はビキニ事件をめぐる米国との政治的取引の中から始まった。
「情報を隠し、責任を曖昧にする。ビキニの事件の処理はすべて福島の事故へつながっている」と大石さん(第五福竜丸の元乗組員大石又七さん)は訴える。』と今年3月5日付の長崎新聞の「核心評論」は述べています。
(山田拓民)


「二世の会」の要請に長崎市が回答

『被団協(長崎版)』1月号でお知らせしましたように、長崎と諌早の被爆二世の会は、12月20日、長崎市と長崎県を訪問、それぞれの市長と県知事にあてて「要望書」を提出し、いずれも約1時間、要請を行いました。
この「要望」に対し、長崎市は1月30日、概要、つぎのように文書で回答しました。
①被爆二世の実態調査については全国的な調査が必要なので、「八者協」「原援協」としても、調査の実施を国に要望している。
②希望する二世には二世手帳を交付することについては、二世には「援護法」が適用されないので困難と考える。
③二世のがん検診をふくむ健康康診断の内容充実については、一層の充実を「八者協」「原援協」としても国に要望している。又、治療、療養については、「被爆者援護法」の適用がない状況では、困難と思われる。
被爆二世に対する援護施策実現のためには、原爆放射線の影響についての科学的知見が必要となるので、昨年「原爆放射線影響研究会」を発足させた。検証の結果、被爆二世に対する援護施策が必要と判断した場合は、国に強く要望してゆきたい。
二世の会では、県に対しても、できるだけ早く回答を出すよう、督促することにしています。
▶「八者協」は広島と長崎の県・市の職員と県議会・市議会の議員で構成されており、「原援協」は長崎市議会議員と市職員で構成されている協議会です。


こんどこそ国家補償の被爆者援護法実現ヘ!

いま、全国の被爆者は、現在の『原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律』は納得できないから、『国家補償の被爆者援護法』へ作り変えよう、という取り組みを始めています。『国家補償の被爆者援護法』とは、私たちが被爆者の組織を立ち上げて以来の、私たちの「要求」なのです。

あの日(広島では1945年8月6日、長崎では同月9日)私たちの頭上で爆発した原子爆弾は、一瞬のうちに強烈な熱線、爆風と放射線を無差別に、老若男女の区別なく、私たちに浴びせたのでした。多くの人達は一瞬のうちに命を奪われ、生き残った人たちも、熱線・爆風や放射線被害に苦しんだのでした。こうした被爆者の苦しみを知っていながら、被爆からわずか2ヶ月で、政府は戦時災害保護法の適用を打ち切り、「救護所」も閉鎖してしまったのです。それから12年間、原爆被害の実態を隠そうとする占領軍に追随するかのように、政府は被爆者を放置したのでした。

◇立ち上がった被爆者
1955年の広島での第1回原水爆禁止世界大会に励まされた被爆者は、被爆者の組織づくりに取り組み、全国各地でそれぞれに被爆者の組織づくりに取り組み、翌56年の長崎での第2回原水爆禁止世界大会の翌日、長崎で、被爆者の全国組織・日本被団協を結成するとともに、政府に対し「国家補償の被爆者援護法」の制定を求めたのでした。

◇57年に『医療法』制定
こうして、放置すると「国家補償の被爆者援護法を作らざるを得なくなると危機感を抱いた政府が、その翌年の3月に作ったのが、「原爆医療法」で、その11年後にできた「被爆者特別措置法」と併せて「原爆2法」と呼ばれましたが、いずれも私たちが求めた「国家補償の被爆者援護法」ではありませんでした。被爆者は、さらに粘り強く「国家補償の被爆者援護法」を求めて全国的な取り組みを展開したのです。

◇国家補償の被爆者援護法を!
被爆者の思いは、いよいよ高まりました。
全国の被爆者の熱い取り組みに負けじと、長崎の被爆者も頑張りました。
当時、長崎県の人口は159万を若干超えていました。全国での話し合いで、人口の1割を署名獲得の目標にしよういうことになっていましたが、長崎では頑張った挙句22万3千人を超える署名を集めることが出来ました。また、「国家補償の被爆者援護法」を作るとなると、結局は衆議院、参議院での議決が必要になるわけですから、長崎から出ている国会議員へも協力をお願いしました。そして、衆議員も参議院も県選出の全議員から、国家補償の被爆者援護法への賛成の意思を表明する署名を集めました。
残念ながら、衆議員でも参議院でも、目民党提案の法案が国会を通過し、私たちが望んだ「国家補償の被爆者援護法」を法律とすることはできず、1994年12月16日、いまの『原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律』ができたのです。それは、それまでの「医療法」と「特別措置法」とを一体にしたような法律だったのです。

私たちが求める被爆者援護法
①ふたたび被爆者を作らないとの決意を込め、原爆被害に対する国家補償を行うこと。
②原爆死没者の遺族に、弔慰金と遣族年金を支給すること。
③被爆者の健康管理と治療・療養をすべて国の責任で。
④被爆者全員に被爆者年金を支給すること。

原爆被害を放射線被害に矮小化する政府
厚生労働大臣は、原子爆弾の傷害作用に起因して負傷し、又は疾病にかかり、現に医療を要する状態にある被爆者に対し、必要な医療の給付を行う。ただし、当該負傷又は疾病が原子爆弾の放射線に起因するものでないときは、その者の治癒能力が原子爆弾の放射能の影響を受けているため現に医療要する状態にある場合に限る。(援護に関する法律)


▶図書紹介

「原爆と検閲」 繁沢敦子著

何となく面白そうだと手にしたのでしたが、読み進むに従って、当時の占領軍の実態と、それを黙認した日本政府の態度に、身が震う思いがしました。
たとえば、アメリカの原爆製造計画の副責任者でもあったファーレルが敗戦の年の9月6日に記者会見で「9月上旬現在、広島、長崎では原爆の放射線のために苦しんでいる者は皆無だ」との声明を発表したことについては、椎名麻紗枝の『原爆犯罪』などで知っていましたが、このファーレルがその記者会見場で広島・長崎の現状について記者からの質問に答えて、「残留放射能の危険を防ぐために、十分な高度で爆発させたため、原爆放射能の問題はありえない」と答えたというのです。被爆地を知つている記者がさらに追求すると、ファーレルは「君は日本のプロパガンダの犠牲になったようだ」と述べて着席し、会見は終わったが、この時から広島は立ち入り禁止になったと著者は書いています。なおこの時点では、ファーレルは、まだ被爆地を訪れてはいなかったのです。
この本を読み進んでゆくと、記者たちが広島・長蜻の真実を報道しようと取り組んでも、GHQがそれを抑え、さらに本国のデスクが削除・改変したのが目に見えるようです。
日本政府もまた、僅か2ヶ月で救護所を閉鎖、原爆の後障害に苦しむ被爆者を隠蔽したのでした。被爆地が爆心地から3.5キロを超えると、ガンになっても原爆の放射線とは無関係という国の姿勢は、当時の占領軍の主張を引きずっているのではないかと思えてきます。

[中央公論社「中央新書」760円](山田拓民)


2月のうごき

1日

福岡市で九州二世学習交流集会 長崎からは二世の会・柿田事務局長ほか二世4名が参加

7日 当面の課題についての学習集会 山田事務局長が最近の状況と課題について報告し意見交換
11日 長崎青年乙女の会が総会開催
16日

二世の会・長崎が第8回総会開催

17日

諌早被災協の役員会で山田事務局長が当面の課題について報告

21日

大分県被団協の役員会で、事務局長が当面の被爆者運動の課題について報告

22日

アビール署名3周年の集い・谷口会長が挨拶

26日 日本被団協代表理事会 谷口会長と山田事務局長が出席 (27日まで)
27日

日本被団協二世委員会柿田事務局次長が出席